小林敏明教授の「ライプツィヒの街から 81 30年前の自分 ― その2」

こんばんわ!モンです

 

ドイツの小林教授より

3月恒例のブランデンブルク門の脱原発風車デモのレポ

と前回からの続き小林教授の30年前を深掘り

それではよろしくお願いいたします。

 

 

 

81)30年前の自分 ― その2

 

 今年も年に一度のブランデンブルク門の脱原発風車デモに行ってきましたよ。天気もそんなに悪くなかったのに、今年は参加者が少なかったです。ドイツでは去年すべての原発が止まってしまったので、反応が鈍かったのでしょうねえ。日本じゃますますヤバいというのに。

                 我らがカズマ君のパフォーマンス

 さて、前回話が長くなり、途中で打ち切ったので、今回はその続き、30年前に自分が何をしていたかという話の続きです。

 

 前回話したのは、当時の生活費はおもに翻訳で稼いでいたということでしたが、これから話すような珍しい「バイト」もしました。それは映画のエキストラです。これにはいろいろ面白い話があります。ベルリンで知り合いになった友人たちの中にたまたま映画関係の人たちがいて、そのコネクションを通してときどきオプションがあったのです。

 

 たいていの役どころは日本人観光グループの「その他大勢」、この顔に眼鏡と首からカメラの日本人というクリシェ丸出しパターンでしたが(日当は千円ぐらいだったかな)、もう少し目立ったのが子供映画のエキストラ。友人のアンジーが子供映画の助監督をやっていて、なにかインターナショナルな場面が必要になると、よくアジア人役で僕が採用されました。

 

ある映画はこんな場面です。主人公が〇〇(名前は忘れました)を探してレストランに入ってきます。その子が「〇〇いる?」と訪ねると、それぞれのテーブルに座っているさまざまな国籍の、さまざまな顔をした人たちが一人一人アップになって、それぞれの国の言葉で「〇〇はいないよ」と答える。僕はもちろん日本語です。たったこれだけのシーンで当時5千円ぐらいもらったでしょうね。

 

 次も同じプロダクションでしたが、もう少し手が込んでいて、僕に日本の着物を着てきてほしいという注文。僕はやくざ映画の高倉健のような着流しで(ほかに着物なんて持ってませんから)、足は下駄ばき。それをカラコロさせながら、典型的なベルリンのダウンタウン、コットブッサートアという地下鉄高架駅の前をただ歩くだけ。監督とカメラマンは正面の集合住宅のずっと上の方にいて、そこから「はい、歩いて」とか「もう一度」といった指示の合図が出されるのです。

 

わざわざ上を見ない限り、普通に道を歩いている人たちは気づきません。その人通りの中を着流しをした東洋人が何度も行ったり来たりするので、注目の的です。歩道に座り込んだパンク風のオネーチャンたちが、こいつちょっとおかしんじゃないかという目で、僕をじろじろ見ます。この通りでは彼女たちの過激なファッションより僕の方がよっぽど目立ちます。このただただ恥ずかしいだけの1時間の撮影も5千円ぐらいだったかなあ。

 

 わけがわからなかったのが、ハリウッド映画がベルリン郊外のバーベスベルクという戦前から有名な撮影所(マレーネ・ディートリッヒもここで撮ってましたよ)を使って映画を作ったとき、あるシーンのために日本人夫婦役を募集したときの話です。それがベルリンのエージェントを通して僕のところにも伝わりました。そこで年恰好も近い友人の画家ナナエさんに話を持ち掛けて、二人で応募してみないかと誘いました。なんせ「ハリウッド」ですから、報酬もきっと高いだろうと捕らぬ狸の皮算用です。

 

 エージェントに何組かの夫婦役ペアが集まって、シナリオ読みのテストです。かつて国語のセンセイをやっていた僕の方はまずまずだったと思いますが、ナナエさんの朗読はツレの僕から見ても、チョットという水準。彼女は絵を描くことは専門家ですが、口の方はどうも畑違いのようです。

 

仕方なくあきらめて帰ろうとすると、エージェントの人がいきなり僕に「折り紙はできるか」との質問。そんなことはオチャノコサイサイですから、彼の目の前でそれをやって見せると、「お宅、採用です。これから一緒にバーベスベルクまで来てください」との申し出。

 

 わけのわからないまま車に乗せられて撮影所に着くと、助監督をはじめスタッフ10人ほどに迎えられて、早速折り鶴のエキジビション。「ワンダフル!」とか何とか言われて、そのまま助監督に連れられ総監督室へ。部屋に入ると、監督は首をかしげて「なんだ、その人間は?」です。助監督が、会食パーティのシーンで主人公がナプキンを使って折り紙をするシーンのために折っている手だけを撮影するための要員だと答えます。一種のスタントマンですね。すると、監督はあっさり「そんなシーンは要らない」と言って、おもむろに立ち上がり、無言で僕に握手を求めてきます。どうぞお帰りください、というサインであることは僕にもわかりました。

 

なんとも人を馬鹿にした話じゃありませんか。さらに頭にきたのは、この丸一日を要した「日当」に対しては一銭も支払われなかったということです。以来ますますハリウッド映画が嫌いになったのは言うまでもありません。ちなみに映画は「スター何とか」というタイトルでしたが、有名な「スターウォーズ」ではありませんでした。そりゃあ僕の「手」が出演していないのだから、売れなかったのも当然、ザマーミロ。

 

 これと対照的だったのが、シルヴァーナ・ラートというイタリア出身の無名監督が作った映画『Wiederkehr(帰還)』というマイナー映画でした。僕にはハイノという映画関係の制作会社をやっている知人がいて(前に書いたヴェンダースの字幕の件も彼を介しての話です)、彼から突然連絡が入って、一緒に映画に出演してくれないかという申し出。今回はセリフもある役だと言います。

 

 ストーリーは、まだ東西の壁が破れる前に東独を脱出してフランスでジャーナリストになった女性が、壁崩壊後ベルリンで開かれた国際哲学シンポジウムの取材に訪れると、その会場で偶然東独に残って哲学教授になっていたかつての恋人と再会し、旧交を温める(要するに久しぶりにベッドインする)けれど、結局は別れてパリに帰っていくという単純な話なのですが、僕の出番は日本から参加した哲学教授という役柄で、撮影はレセプションの立食パーティで他の参加者たちと歓談するというワンシーンだけです。

 

 そのシーンでは僕とハイノともう一人のドイツ人女性の三人でワイングラス片手に歓談するのですが、女性が煙草の煙を僕の方に吹きかけて人種差別的な言葉を吐くので、ハイノと僕が目くばせをしてその場を去るというシーンです。このとき僕にもドイツ語のセリフがあったのですが、出来上がりのフィルムではそのセリフのところはカットされてました。これもわずか1万円ほどのギャラでしたが、これは映画の最後に来る俳優やスタッフの名前のところに僕の名前も出てきます。まあ、なにかの記念にそれでもいいかと納得しました。

 

もっともKobayashiKobazashiだかKobuyashiだかになっていたのは愛嬌でしたが。

 

 そんなこともあって、このころはよく映画館に出入りしてましたよ。ベルリンには自主上映館のようなものがいくつもありますから。一週間に2,3本は観ていたし、毎年2月に開かれるベルリン映画祭などは連日梯子で3本ほど観てました。この頃は僕のパートナーが映画祭の監督インタヴューの通訳をやっていたこともあって、日本人監督の人たちとも親しくなり、一緒に飲みに行ったり、自宅に招待したこともあります。

 

 思い出に残っているのは『ゆきゆきて神軍』で有名な原一男(『全身小説家』)、「タンスにゴン」「亭主元気で留守がいい」のCMで有名な市川準(『東京兄弟』)、東陽一(『絵の中のぼくのむら』)、やや後になりますが若松孝二(『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』『キャタピラー』)といった人たちです。

 

同い年の市川さんには自宅にも招待されたり、砧の撮影所で完成前の『トキワ荘の青春』の試写にも同席させてもらったのがとても良い想い出として残っています。残念なことに、彼は脳内出血で早々に亡くなってしまい、ホント残念。ほかに

 

上映後に話をさせてもらったのは大島渚(『御法度』)、小栗康平(『眠る男』)といった人たちでしたが、このうち3人はもう鬼籍に入っているのですよね。やっぱり「過去」です。

 

 

 

 

 

教授、本日もありがとうございました!

 

ハリウッドデヴューはなりませんでしたが

原一男、市川準、東陽一、若松孝二、大島渚、小栗康平、

ビックネーム日本映画界の巨匠ばかりじゃないですか!

 

またまた教授の別の一面を見せて頂きました

本日もレポ楽しませていただきました!